元禄15年12月14日

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この日が来ると私はいつも忠臣蔵の物語を思い出す。
中山安兵衛武庸は新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男として誕生した。
しかし、安兵衛が13歳の時、父が櫓失火の責を負って浪人となる。
ほどなくして父が死去。
孤児となった安兵衛は、親戚を頼って江戸へ出る。
そして堀内道場に入門し、剣術の才で頭角をあらわした。
安兵衛は生涯二度にわたるあだ討ちをしている。
最初は、高田馬場の決闘だ。
元禄7年2月11日 、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩松平家家臣。安兵衛と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、安兵衛は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した。
これを知った赤穂浅野家家臣・堀部弥兵衛が安兵衛を娘の婿養子に迎えたいと熱望する。
はじめは中山姓に執着したため、断っていた安兵衛だが、弥兵衛の思い入れは強く、主君の浅野内匠頭に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上した。
これを聞いた安兵衛もついに折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入ることを決める。
元禄10年(1697年)に弥兵衛が隠居し、安兵衛が家督相続。このとき、中山姓から堀部姓に変えている。
赤穂藩での安兵衛は、200石の禄を受け、御使番、馬廻役となった。

元禄14年3月14日、主君・内匠頭が江戸城松之大廊下で高家・吉良上野介に刃傷に及び、内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は改易と決まった。
安兵衛は江戸急進派と呼ばれる勢力のリーダーとなり、赤穂へ赴き、筆頭家老・大石内蔵助と面会。篭城か仇討を主張したが、弟の浅野大学による浅野家再興を優先することを諭されて、赤穂城明け渡しを見届けた後、江戸に戻る事となった。
その後も安兵衛ら江戸急進派は敵討を主張。
大石は彼らを説得するために江戸へ下り、一周忌となる元禄15年3月14日の決行を約束して京都へと戻っていった。
しかし大石は主君・内匠頭の一周忌が過ぎても決起はしなかった。
再び大石と面会するために安兵衛は、元禄15年6月29日に京都へ上った。事と次第によっては大石を切り捨てるつもりだったともいわれている。
7月18日、弟大学の浅野宗家への永預けが決まり浅野家再興が絶望的となると、大石も覚悟を決めた。
いわゆる京都円山会議にて、明確に仇討ちを決定した。安兵衛はこの決定を同志たちに伝えるべく、江戸に戻った。

そして人生2度目のあだ討ちの日が来た。
元禄15年12月14日、赤穂浪士四十七士は本所松阪の吉良家屋敷に討ち入った。安兵衛は裏門から突入し、大太刀を持って奮戦した。
1時間あまりの戦いの末に赤穂浪士は上野介を討ち取り、本懐を遂げたのである。

討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、安兵衛は大石の嫡男・大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられた。
元禄16年2月4日、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられた。享年34。
主君・内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。

安兵衛が切腹して311年。今年も新発田では義士祭が行なわれた。
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本丸表門
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新発田城辰巳櫓
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三階櫓
この場所は膝下まで雪に埋もれて撮影した。
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Canon EOS 70D  TAMRON 16-300mm F/3.5-6.3 Di II VC PZD
F11 1/250秒  ISO500 14:54 雪
撮影日 2014.12.6 撮影地 新発田市・新発田城

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by chonger53 | 2014-12-14 23:42 | 歴史
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